サラブレの謝罪記事に関して
- 事の発端
メディア・リテラシーの一環として、文章の書き方というテーマで取り上げたいのだが、そのきっかけが06年12月13日に発売となったサラブレ(エンターブレイン社)の中で謝罪記事が載っていたこと。前号で関係者に失礼な言葉遣いがあったということで、その前号に書かれていたのは、カリスマ馬喰という相馬眼の達人らしき人が語るというもの。それが実在する人物かどうかも怪しいような文章だった。
そのカリスマ馬喰氏のコメントでダイアモンドヘッドに対する評価として以下のようなものがあった。以下、引用。
クラシック級のサンデーではない 狙い目はマイル重賞
「これ、当歳時にセレクトセールで見て酷評した馬なんだよ。『自分では買わないなぁ』って思ったくらい(笑)。走るサンデーのパターンじゃないからね。馬体はサンデーというより、まるでエーピーインディの仔みたいだよね。サンデーの持つしなやかさが、この馬からはあまり感じられないというか。それに、繋ぎがかなり立ってるでしょ。クラシックで走るサンデーにこういった馬はほとんどいないよ。とはいえ、重賞で2着に来ているからね。
クラシックでどうこう言う馬じゃないけど、マイルの重賞くらいなら勝ってくれるでしょう。」
実際これを読んだ時に、いくつか直感的に感じたことは、「重賞2着馬だから走るサンデーだよなぁ」と「競馬王の名前の出せない生産者のパクリだよなぁ」と「まぁ妥当な評価だとは思うけど…」と一番は「胡散臭い記事書くなぁ、サラブレも」と思ったこと。
- ブログとマスコミの違い
ブログとマスコミの違いは何かという点において、「信頼性」が挙げられる。ニューズ・ツー・ユーの社長のブログに情報の信頼性関連する記事が書かれていたのでそのまま借りる。
グーグルで記事検索をすれば、かなりの確率でブログが引っ掛かるようになってきた昨今。レポートなどを書く際に、参考文献やURLとして載せられるであろう新聞社や教授等のHPなどが見つかりにくくなった。そこでは知らず知らずの内に「ブログは引用や主義・主張を後押しする材料になりえない」とインプットしていること。
最も、マスコミに誤報がないかといえばそういうこともなく、マスコミに対する信頼性が逆に、マスコミの誤報を正当化してしまうこともある。事実が事実でなくなるという恐ろしい現実が、高度情報消費社会ではありえることだ。
- ブログによって発生する責任
当然ながら、ブログであっても書き手に責任は発生する。ある人や企業を誹謗中傷するような記事を書けば社会的制裁を受ける。その具体的な事例がきんもー☆事件だ。
当ブログでも何度も書くが「レベルが低い」「好走するのは無理」「しょうもないレース」などなど、受け手の側にすれば、「なんて失礼なことを」と思うような言葉が並んでいる。しかし、これを法律や条例で規制したとすれば、ほとんどの文章が賛辞のみになってしまう可能性があり、また、表現の自由という権利を侵されかねない。その一方で、名誉毀損という法律とも関わってくる。
- 異なる表現方法
現状の競馬マスコミで、個人的に不満な点は「消しの理由が書かれない」こと。本命馬や対抗馬を買う理由はどれも差の無い文章であるが、消しに対する記事は少ない。「危険な人気馬」と銘打って、記事にする社もあるが、「〜ではないか」と書いているように断定的ではない。その点、ブログの中で優れた消しの理由を載せているものは数多い。
それに挑戦する意味で、今春に行われたスポーツ報知での学生予想バトルの中で、「マカカイビーディヴァは59kgで遠征+高速馬場の2000mに対応出来ず消し」と書いたが、特に反応はなかった。
確かに、関係者にしてみれば、自分の馬の非難をされれば不愉快だろうが、競馬関係者も完璧な仕上がりで出さず、「ここは叩き合いだ」や「トライアルらしい乗り方をする」などのように「常に1着を目指さなくてならない」という大前提を無視している。
ファンがいてこその競馬であれば、常に情報の開示はされるべきである。だが、馬主がいてこその競馬ならば、馬主に不利な、不利益な、不愉快な情報は流さないのが筋であろう。しかし、ファンと馬主の両者が揃ってこその競馬である。こうした問題の背後には常にこの二者関係があり、それが問題を複雑にしている。
- サラブレの件
記事の設定として、「カリスマ馬喰」という人物に語らせる方向性は前述の「名前の出せない生産者」同様のものとして面白いものではある。そして、その中で綺麗な言葉ばかりを並べていれば良かった。
しかし、名前を伏せてしまったことで、サラブレ側は「個人」ではなく「会社」としての責任を負うこととなった。それはデスクの責任であり、校正の責任でもあるわけだ。
やはり、マスコミとして、記事を書くのならば「誰が書いたか」を明瞭化しなければならない。
- ブログ
ブログが普及したことによって、これまでの情報の受け手という立場から、それぞれが大量の人々に情報を発信できるという今までの社会にはなかった動きが出来つつある。その中で、情報発信者として、どのようにすべきか、どのような責任が発生するか。難しい問題ではあるけれども、ブログ書きとしてはいずれ考えなければならない問題だろう。
表現の自由か個人の名誉か。今はまだ結論が出せない。