メディアとヒーロー 競走馬の場合

 Whannel,G.(2002)によると、スターは新聞、雑誌、テレビ、自伝などメディアによって作られるという。各メディアの論法についてはカットするとして。
 三井宏隆・篠田潤子はスポーツ・テレビ・ファンの心理学[2004]の中で、メディア報道の常套手段としてヒーローを作り上げる際には、「際立った才能の持ち主、信じられないほどの偉業の達成、市民の祝福、スターらしいイメージ」といった内容のものが繰り返し伝えられるが、ピークにある選手については、「尊大ぶり、未熟さ、疑惑、逸脱行動、スキャンダル、失敗」を伝える内容のものが増加すると述べている。


 それらを日本の競馬ブーム、ここではハイセイコーブーム(1973〜1974)とオグリキャップブーム(1988〜1990)とハルウララブーム(2003〜2004)、ディープインパクトブーム(2005〜2006)の4つと、その馬に関して考えてみたい。

  • メディア報道の常套手段と競走馬

 先の三井宏隆・篠田潤子の中のメディア報道の常套手段の文法に当てはめるならば、馬であることにより人間と違って、スキャンダルや疑惑というダーティな部分が報道されることは非常に少ない。オグリキャップの馬主問題やハルウララの引退騒動など、物議を醸す問題はあれど、それがファンの人気を下げるほどのスキャンダルに発展することはない。(ハルウララの人気を下げたのは、出走し負けるという一番の目的を止めてしまったからであると思う。)


 ともすれば、競走馬の場合は、人間に見られるスキャンダラスな報道がない代わりに、その馬の実質以上のモノをメディアが現象として作り出してしまっているのではないだろうか。


 例えば、ハイセイコー安馬でもなく、みすぼらしい体でもなく、不遇な幼少時代を過ごしたわけでもない。地方デビューという、一つの要素がメディアに大きく取り上げられ、その人気を支えた。同様のことは地方出身のオグリキャップにもいえよう。彼らが他の数多いる地方出身馬と違ったのは、中央初戦から既に人気を博していた点であり、ハイセイコー弥生賞が1番人気、オグリキャップはペガサスSを2番人気で迎えている。


 スキャンダラスな報道がないのは、人間と違って性的な報道のしようがなく、また馬が勝手にドーピングなどの不正行為をするわけでもない。つまり、人間の場合のヒーローを作り上げる際の文法が競走馬の場合は異なることを意味する。

  • 時代と共に変化するヒーロー像

 Vande Berg,L.R(1998)は、マス・メディアが求めるヒーロー像が時代と共に変化していることを指摘した。それによると、
 1.近代社会の価値観と強く結びついていた時代のヒーロー。
 2.そうした価値観を相対化したり、否定するポストモダンのヒーロー。
 3.様々な価値観の対立や葛藤を止揚し、新たな時代の到来を告げるヒーロー

 といった具合である。彼が指摘したのはNorlan RyanやJoe Montana、Michael Jordanといった人間の研究を進めたのだが、ここでも競走馬の場合で考えてみたい。


 ハイセイコーブームについて、競馬マスコミは中央移籍当初からハイセイコーを「怪物」、「地方出身の野武士」と評し、その人気を煽り立てた。その要因について、日刊競馬解説者の吉川彰彦は2005年の時点で「今思ってもやはり不思議」であると述懐している。また赤木駿介は、当時のマスコミは王貞治長嶋茂雄にかわるスポーツ界の新たなヒーローを探しており、まず競馬界が注目され、次にスターホース候補としてハイセイコーに白羽の矢が立ったためだとしている。また、集団就職などで地方から都会に上京し、都会で働いていた者たちには、地方競馬から出て中央競馬の一流馬たちに戦いを挑むハイセイコーに自身の姿を投影する者が多く、これがブームの根底を支える事になったとも言われる。


 オグリキャップはバブル景気と相まって競馬ブームを巻き起こし、女性ファンを競馬に取り込んだ。オグリキャップの登場以前は競馬といえば男性の娯楽、ギャンブルというイメージが大きく、ハイセイコーブームに沸いた時期でさえ、女性の入場者はほとんどいなかった。しかしオグリキャップの活躍が報じられるようになると、武豊と共に若いファン、女性ファンを競馬場に引き込む原動力となった(彼女たちは俗に「オグリギャル」と呼ばれた)。


 ハイセイコーは当時の日本の状況、地方出身者が多いという時代背景により共感を得た者が多かったこと。オグリキャップはバブル景気と相まって、競馬が大衆文化化し、人気を博したと言われている。


 問題は、ハルウララブームとディープインパクトブームが両立している2000年代である。一方は負け続けても頑張る姿が心を捉え、もう一方は、圧倒的なパフォーマンスで観る者を凌駕する。つまり、全く対照的な2頭が同時期にブームを作り出しているのである。ヒーローが時代を映す鏡であるというならば、この両者の両立は異質なものに映る。


 ハイセイコーハルウララがマス・メディアによって作り上げられたヒーローというならば、そのパフォーマンスで人気を集めるディープインパクトこそ本当の英雄であるのではないだろうか。(ハイセイコーオグリキャップの現役当時を知らないだけに、その報道や凄さが実感としてわからない。ファンの方は作り上げられた人気と書いたことを否定なさるかもしれない。)


 もう一つは、ディープインパクトの強さが主催者であるJRAの過剰な演出(例えば現役時代に銅像を作ったり、特別なレーシングプログラムを配布したりといったもの)によって、我々ファンも過剰に受け止めているのかもしれない可能性。


 ヒーローを作り上げるマス・メディアが作ろうとする理想像、言い換えれば、世論を作り出したい力が、一定の方向に向くことをやめ、様々な方向に向きだしたことが、ハルウララディープインパクトの両立といった背景を作り出しているのかもしれない。


 ハルウララディープインパクトが両立する社会というのはもう少し考えていきたいところだが、それはまたいつの日か。


 雑文でどうもすいませーん。